旭川への旅

15年前から梅雨のない北海道で6月か7月に友人達とゴルフを楽しむことが恒例となっていたが、コロナ禍以降は中止でした。今年は、再び北海道でのゴルフが企画された。同じような考えを持つ人が多いのと、海外特に韓国からのゴルフツアー客が増えたこともあり、夏場の北海道のゴルフ場はどこもフルブッキング。残念ながら、6月か7月にプレーを予約することができなかった。結局10月2日に恵庭市にあるエルムカントリーでプレーすることになった。今回、札幌ということで、体調を崩している旭川の友人を訪ねることにした。
9月30日(月)、9:10に関空から千歳空港に飛び、JRで札幌駅まで移動。札幌から旭川行の特急「カムイ17号」(13:00発)で旭川に移動した。車内は平日ということもありガラガラの状態。(JR北海道が大幅赤字に苦しんでいる状況が理解できる)夕張山地と増毛山地の間を流れる石狩川によって形成された石狩平野を、石狩川沿いに列車は函館本線を北上して旭川をめざす。
列車は岩見沢、美唄と石狩川に沿って右手に夕張山地を眺めながら北上。

美唄駅のホーム

夕張山地(右側)に見ながら列車は石狩平野を北上する

道路はまっすぐにのびている

カムイ号は、砂川駅、石狩川の支流の空知川を渡り滝川駅に停車。滝川駅の次は深川駅に停車した。駅の名前に“川”がついていて、地域が石狩川と密接に繋がっていることの現れである。札幌から深川駅まで全くトンネルがなかったが、深川駅からは夕張山地を抜ける長いトンネルが続いた。札幌から旭川まで快適な1時25分の列車の旅となった。
JR旭川駅は2011年に建設されたモダンな日本最北の高架駅である。旭川駅は、函館本線、宗谷本線、富良野線の起点となる重要な駅になっている。駅ビルを出ると駅前の広大な広場が広がる。

旭川駅

広大な駅前広場

左手にはイオンモール旭川店。目の前の駅前交差点を渡ると旭川買物公園に、ここは旭川駅から8条通りまでの1㎞の幅20mの通りを、1972年に歩行者天国にしたもので、旭川の商業の中心となっている。2002年に、ロードヒーティング、段差をなくするバリアフリー化、電線の地中化等のリニューアルがなされ現在に至っている。

旭川買物公園

宿は駅から5分のホテルにとった。午後3時半から友人が車で旭川市内を案内してくれた。夕食前に有名なラーメン村で旭川ラーメンを食した。

旭川ラーメン(少しこってり目の鶏ガラ、豚骨のスープで、麺は固めの中太のちぢれ麺)

その後、居酒屋で北海道の郷土料理で1次会、2次会は友人の知り合いの寿司屋で北海道の新鮮な魚を肴に旭川の地酒「男山」を楽しんだ。

10月1日の午前中に、友人に車で昭和通りから石狩川をまたぐ旭橋を渡り、陸上自衛隊旭川駐屯地に隣接する「北鎮記念館」に連れて行ってもらった。北鎮記念館では北海道の開拓の歩みと防衛を物語る資料を展示している。

北鎮記念館(駐車場からの写真)

正面入口を入り、簡単な手続きを済ませた後、順路に沿って館内を見学した。まず屯田兵のコーナー。北海道の開拓と維新で職を失った士族の救済を目的に、屯田兵制度が始まった。屯田兵には北海道の開拓に加えて、有事には北海道を防衛にあたることが求められた。石狩平野には多くの屯田兵が入植したが、札幌近郊には士族の入植が、旭川周辺には平民の入植が多かったとのこと。

屯田兵に支給された作業服と軍服

次いで、旧陸軍第七師団関連の展示コーナーに。明治29年に北海道防衛のために札幌に創設された第七師団が、明治34年に旭川に移転され、「軍都旭川」が生まれた。日露戦争における旧陸軍第七師団関係の資料、大正、昭和における旧陸軍第七師団の活動の歴史と貴重な資料が展示されていた。

第2代北海道長官でもあり、初代第七師団長で屯田兵の育ての親とされる「永山武四郎」の胸像との看板と第七師団の看板

石狩川の取水口から3㎞にわたり土中に埋められ使われた木製の水道管

吉葉山は1942年に応召され、山砲兵第七連隊に入営。入営して2か月は軍服がなく羽織・袴で過ごした。(写真2列の右端が吉葉山)吉葉山は復員後4年間のブランクを乗り越え稽古に励み、1954年1月に第43代横綱に昇進した。

最後に、大東亜戦争における旧陸軍第七師団の戦闘の展示があった。記念館の裏には、旧陸軍第七師団の哨所や指令部門柱が展示されていた。

建物の裏に展示されている第7師団の哨所や指令部門柱

見学後、昼食に旭川で人気の市内高砂台にある蕎麦処「扇松園」に友人に連れていっていただき、江丹別産の蕎麦を使った10割蕎麦をいただいた。そばの味もさることながら、量も十分で満足な昼食となった。

昼食後、旭川駅まで送ってもらい、旭川駅始発の「ライラック号」で札幌駅に向かった。

旭川発札幌行の特急「ライラック号」